#022 恩田友紀さん


お名前:恩田友紀さん

フラ&タヒチアンダンサー

ダンススクール『ヘイマラマ』主宰 

出身 :岐阜県多治見市生まれ

現在 :多治見市在住

取材日:2021年9月8日

彼女の踊りをはじめて見たのは、3年ほど前。イベントでの出演を交渉しスクールの生徒さんと何曲か踊ってもらいました。

団体でのダンスから、彼女のソロのダンスがはじまった時に、その妖艶さに女性である私も見惚れてしまった記憶があります。

小柄で華奢な体からは想像できなかった女性の色気というか。そしてそれだけではない、神秘的なオーラを感じました。

出番が終わりお話するといつものカラカラと明るい笑顔で先ほどの妖艶ともいえる表情とはまったく違う。

表現者とは総じてこういったものなのかと思いました。

十代の頃、地元を窮屈に感じたと言います。憧れて飛び出していった都会の生活で感じた事とは?そして再び故郷に帰りスクールを開講した中で、若い頃には感じ得なかった思いとは?

多治見市や瀬戸市を中心にフラ&タヒチアンダンススクールを主宰している方が今回のゲストさんです。

大きな瞳の先、あの山の向こう

高校まで地元である多治見市に住んでいましたが、漠然といつかここを出て、都会の世界を見てみたい、そこで学んでみたいと考えていたといいます。自宅の2階のベランダから外を眺め、あの山の向こうにはどんな世界があるのだろうと異常な憧れを描いていました。

その時に興味があったのが、演劇。高校卒業後は東京の舞台の専門学校へ進学します。興味がある、やってみたいと入学した学校ではありましたが、周りは宝塚歌劇団の入学を目指して幼い頃からバレエ・声楽を習っている同級生が多く、未経験の自分に早くも引け目を感じてしまったとの事。それでも学校に通いながら、オーディションを受ける日々を続けていました。

オーディションはもちろん素質や実力も選好されますが、当時の自分はコネクションというものがあることを初めて知り、ショックを受けたと同時に、それなら何のためにオーディションをやるのだろう?と思い悶々としていました。

そんな中、あるオーディションでとても印象深い女性に会ったといいます。オーディションで出会った彼女はいわゆる高学歴で何か国語も話す事ができ、それに加え、自己紹介パネルを持ってきたと。そこで束ねていた髪をぱっとほどき『私の魅力はこの大きな瞳です!』と言い、最後は側転して会場を出て行った。

「彼女のPRはとても滑稽にも思えたのですが、それよりも自分とは圧倒的に違う熱量をまざまざと見せつけられた気がしました」と。演劇は好きだけど自分にここまでの情熱があるのかと自問自答し始める事となります。

しかし母には無理をさせて、東京に出してもらった事もあり、こんな事であきらめて帰れないと、頑張っている自分を演出して、母には心配かけないようにしていたといいます。

学校卒業後も自分の気持ちをごまかしながら、東京で暮らしていましたが、29歳の時に直面した出来事で自分史上、人生で一番深く悲しく苦しみ、廃人のように生きる日々が続きました。

月、虹、波、そしてフラ

このままではいけないと、自分で主催出費して、舞台イベントを開催しようと決めたという。

友人に依頼しバンドマンを集めてもらい、「ムーンボウ(moonbow)」というイベントを企画しました。

ちなみにmoon bowは月の虹という意味で、ハワイではムーンボウを見ると幸せが訪れるい言われるほどなかなか見られないものとの事。

バンド演奏で、どんと(岐阜県大垣市出身)が歌っている『波』いう曲を披露することになり、メンバーから「波フラ」を踊ってほしいと依頼があったのです。

この依頼こそが、後に彼女をフラダンスの道へ導いていくことになります。依頼はあったものの当時はフラダンスの経験はなく、まったくの初心者。イベント出演に間に合わせるため、都内のフラダンスのワークショップに通いマスターしたといいます。「その頃の映像は酷いものです(笑)でもフラダンスがまだ日本ではそれほど浸透していなかったので何となく誤魔化せてしまったのだと思います」と。特にフラダンスに興味があったわけでもなく、ハワイの民族舞踊にリスペクトがあったわけでもなかったのに、なぜかそのイベント後もフラやタヒチアンダンスの依頼が舞い込み、そのたびにスクールに通って人前で踊れるようになり、あるイベントの依頼で1,000人以上の前で踊った事で、その期待に応えようとダンスのスキルアップに努力をしてきました。

自身が主催するイベントをきっかけに、フラ&タヒチアンダンスに引っ張られていく形で、人生のターニングポイントを迎える事になります。

そんな時、東京であの東北大震災に経験する事となる。当時、賃貸マンションの7階に住んでいた事もあり、これまで感じたことのない揺れに死ぬかもしれないという恐怖を初めて感じたといいます。洗濯機も冷蔵庫もすべて倒れ、東京に地震が直面したわけではないが、この事が彼女にはかなりのトラウマになってしまいました。

震災直後、母に電話をした時、声が出なくて自分の喉を何回もつねって話していたため、喉に痣ができるほどに。

メールを打つにも指が硬直して上手く打てない。思ってもみなかった自身のストレスやトラウマによる体の変化も現れたこともあり、何をやるにも希望が持てなくなってしまっていたと言います。

そしてこれを機に、地元に帰る口実として、地元多治見市でダンススクールを開講しようと決め、月2回ほど東京から多治見市へ通う事となります。

踊ることは生き様

はじめは市の施設などが運営するカルチャースクールの講師からのスタートでした。多治見市のまなびパークで初めて開講させてもらい、その後瀬戸市の方でも開講するようになります。

スクールを開講し講師をすることで、これまで気づけなかった気づきがたくさんあったと言います。東京にいた時の自分は、自ら学びたいという気持ちが強く、スクールでの先生の指摘や少し厳しめな指導も当然だと思っていました。しかし地元で生徒さんと接した時、ほとんどの方が、自分のような価値観では無いとわかりました。スクールの生徒ではなくお客様として通っている方に、東京で自身が受けてきたレッスンをしても受け入れてもらえません。ダンスを習っている目的は人それぞれです。自分の価値観や固定観念に縛り付ける事で、自身もイライラやジレンマが溜まってきてしまいます。それには生徒さんの多様な価値観を受け入れる事も大切だと自分を変える事ができました。少しずつ生徒さんも増えていく中、生徒さんの成長や変化を見た時、講師としての楽しさを感じると言います。「ダンスはその人の人生観が出ます。愛の歌を踊るときはやはりいろいろな経験をしてきた世代の生徒さんは情緒があり魅力的な踊りをします。若い世代の生徒さんは弾けるような元気さもあり。踊りは上手い下手ではなく、生き様を見せる方法でもあります。」日本人は恥ずかしがり屋なので、なかなか自分を解放するのが難しいですが、ふと開放された瞬間のその人の魅力を見るのが好きだといいます。

発表会ともなると人選も気を使うようですが、それはやはり努力しスキルも向上している方にチャンスを与えたいという信念は曲げずにいきいとのこと。他の人がどうといういう事より、自分自身を高めることにエネルギーを使い成長する事のバネにしてもらいたいと語ります。

スクールで講師もしながら、2年ほど前に久しぶりにタヒチアンのソロダンスのコンペティションに出場することになります。タヒチアンダンスの際は、日焼けした肌を演出するため、セルフタンニングというものを使い肌を黒くみせたりすることもあります。新陳代謝とともに落ちるカラー剤なので、コンペ終了後にいつも以上にゴシゴシと体を擦って洗っていました。その際に胸の上に感じた、とても固いシコリ…。嫌な予感が頭をよぎります。

それまでちゃんとした健康診断を受診したことが無く、がん検査を受けると言えば母になんと言われるかという事を考えてしまい、家族には普通の健康診断を受けると言って受診したといいます。

診断の結果、悪性の乳がん。すぐにでも摘出手術が必要だと告げられるのです。

片胸の女性の写真を見て、こんな風になってしまうなら治療を望まず、手術しない方法を選ぼうとも考えたといいます。しかしそう考える自分を、「私っておっぱいだっけ?人は見た目なの?そんな胸を売りにしていたっけ?」と反対の自分の考えが出てきました。がんが発覚する前は、片胸の女性に偏見を持つことは無いと思っていたが、当事者となった時、自分がこんな姿になる事に怯えたという事は、口では差別しないと言っても、どこかで偏見を持っていたと感じました。さらには、治療を始めると、子供を産めなくなるかもしれないので、卵子を凍結保存するかしないかを手術前の1週間で決断しなければいけませんでした。乳がんは早期発見、手術治療などで5年10年後の生存率も高い。生きるか死ぬかの選択であれば当然、検診を受けたほうがいい。ただ検査で何もなければいいが、万が一悪性腫瘍が発覚した場合は、例外なく彼女が迫られた決断をしなくてはいけなくなります。「早期発見治療のため、検診をしましょう」と言うが、自身の経験から、こんな重要な人生の決断を短期間でしなくてはいけないの?人にはそれぞれの人生プランや夢がある。病院では「生きる」ことだけが優先されて自分の気持ちは現状についていけないまま置いてけぼりになっているのは当の本人だけでした。でも人生はその人個人のもの。そう思うと検診率を上げる事への疑問が浮かんできました。彼女の場合は温存治療という選択はなく、摘出という方法しか生きる道が無かったため、見た目が変わってしまう乳がんを発見するための検診になおさら疑問を抱いてしまったのかもしれません。(*当事者となった当時の本人の思いであり、決して検診を否定するものではありません)

友紀さんは手術で摘出するという事を選択しました。その際、SNSでこの事を公開する事を決めました。母をはじめ周りには理解されなかった。どうしてわざわざ公開するのかと。公開しないことはやはりがんになった自分を引け目に感じる事。自分は悪いことをしたわけでは無いし、このダンスの仕事をしていればいずれ知られる事。それなら手術前というこのタイミングで公開しようと決めたと言います。

病院で消灯間際に投稿し、他の人のコメントを見ないように手術の日を迎えました。

術後の自分の体に気持ちの折り合いをつけるには時間もかかります。しかし術後には自分でも思ってもみなかった感情も味わいました。がんが発覚した時は、子供を作るにはぎりぎりの年齢だと思っていたので、もうできないと言われ、かえってその圧力から開放されたようでしたと。

SNS投稿での反響は大きく、〝実は自分もがんを患っていてこの投稿で勇気をもらいました〟というコメントもあったと言います。彼女の包み隠さず生きる、自分の想いを飾ることなく自由に伝えるという行動が投稿を見た方に感動を与えたのだと思います。

がんとの付き合いは摘出という事で終了したわけではなく、今後経過をみながら、付き合っていくことになります。

スクールの活動は現在、中央公民館とパークレーンズを利用しています。

「フラもタヒチアンも自分を押し上げてくれたきっかけであり、自分を表現する手段であったと思います。ダンスやお芝居は本人が気付かなかった魅力を引き出すことができる手段ですし、体を動かす事で、マイナスの思考からも解放される。たくさんの方がもっと気軽にそれを体験してほしいです。そしてそんな解放された女性たちを見るのが私も嬉しいのです」

辛いと思える事をたくさん経験してきたとは思えない、ハリのある口調と、満面の笑顔で話してくれました。

本来神へ祈りを捧げるときに、歌や音楽と一緒に踊られていたタヒチアンダンス。震災の経験、自身の病気、そして今もなお続くコロナ禍。そんなすべての事がやがて穏やかに平和な未来に導くため、これからも祈りを込めて踊り続けてもらいたいと思います。


好きなファッションは?

原色の明るい色目の服で、ダンスショーだといつも体にフィットした衣装なので、普段は締め付けの無いふわっとした服を着る事が多いです。


多治見お気に入りスポットは?


お気に入りの理由は?

高校生の頃、ここにあるオブジェに登っていつかあの山の向こう(都会)に行きたいと思っていた場所。

そして紆余曲折して故郷に帰って来た時も「お帰り」と迎えてくれた気がする場所です。


多治見の好きなところ・いいところ

あたたかい人が多い。そして、独自に面白い事をやっている方も多いところ。


多治見がもっとこうなったらいいな

自分の事でいうと、同業者さん同士でなかなか友達になれないので、垣根を越えてもっと色々と情報交換できたらと思います。あと多治見市はダンススタジオが少ないので、こういったカルチャーを広める場所が増えるといいなと思います。


取材・ライター

:

山下真美子 (POLA 紗ら)
ヘアメイク・コーディネート 鈴木利奈子(POLA THE BEAUTY多治見住吉店

動画編集・コーディーネート

: 富田由芳(ロージーチークス )

ネイルデザイン

: 小林八智子(ネイルサロン トレゾール 
カメラマン : 勝股聡子
Webサイト制作 : 馬場研二