撮影日、看護師の白い制服に満面の笑みで現れた彼女。集合場所は岐阜県立多治見病院。
かつて(今も)看護師は天使と呼称された事があった。戦争時代、戦士達は過酷な戦場で唯一笑顔をみせて看護にあたってくれる看護師がそう見えたのかもしれない。今も昔も看護師という存在にどれだけ命を救われてきた人がいるのかという事実は変わらない。
救命救急という、まさに生死をさまよう命をいくつも見てきた彼女が語る、医療の現場とは?身近な存在でありながら実は医療従事者でなければ、ほとんど知られていない看護師になるための道のりとは?
仕事現場である病院にてインタビューをしてきました。
現在一児のママである佑布子さんは、お子さんが生まれる前までは、救命救急センターの看護師として活躍してみえました。
多治見市で生まれ、高校も多治見市内。高校生までバスケットボールを本格的にやっていて、今の彼女からは想像もできないが髪型もスポーツ刈りに近いくらい短かった。大学に入ってからもバスケットボールを続けたいと思い、それを続けられる大学を目指そうと思っていたという。しかし家族に、「家族に医療従事者がいると安心だよね」という事を言われ、「素直にそうだよな、私がそういった仕事に就けば家族の助けになる。」と思い、高校2年の時に看護師を目指すことを決めたとの事。
高校卒業後は多治見看護専門学校に通い、その後、県立多治見病院に就職。
看護学校はとても厳しいところでしたと。看護師という職業とはという事を伝授されるところで、「高校生の時はバスケットボール部でほぼ男の子みたいな髪型格好でしたので、高校卒業後は〝女の子ライフ〟を楽しみたかったのに、メイクはしてはダメ、でも眉毛は朗らかに見えるように描く、髪は染めてはダメで黒髪のみ、髪はまとめる、爪は毎日短くカットするなど、とにかく身なりには厳しかった。」と。
看護学校は看護の基礎知識を学ぶ場でした。例えば、麻痺がある方を着替えさせるときにどちらの手から通すかなどで、注射針を人に刺すなどの医療行為は国家資格を取ってからしか行えず、すべての本番は卒業後の実際の現場からでした。
学生の時は、どのように働くかの基礎知識はあっても、実際に資格をとってからの仕事はそこにプラス医療行為の補助というものが入ってきます。
「この医療行為の補助というものがかなり難しくて。実際に注射器に薬を詰めて先生に渡すのですが、その薬を間違えたら患者さんに害を及ぼしてしまいます。学生の時は水で実施していたのが、本当の現場になれば薬に変わるという緊張感。採血して検査に出す時も、その出し方を間違えてしまうと、もう一度患者さんに痛い思いをさえて採血し直さなくてはいけません。新人の時は毎日毎日がぶっつけ本番で常に気持ちが張りつめていまいした。今の自分があるのも患者さんに成長させていただいた事が大きいです。」
注射器を刺す勉強も、同期同士でしたり、先輩の腕を使わせていただいていました。後輩が出来た時に、自分も新人の時には先輩の腕をを貸してもらったからと、自分の腕を貸して練習させた事もありますが、後輩の手がプルプル震えていて。「ここに刺すんだよ、いくよ!」って言って練習していましたが実際にはすごく怖かったです(笑)
現在7年目になりますが、4年目から自身も後輩を指導する立場となった時に、その時にいかに自分が問題児で迷惑をかけていたかがわかりました。新人の時に怒られて泣いていた事もありましたが、泣かれる事がどれだけ先輩のプレッシャーになっていたのだと、立場が変わった時に知りました。
救命救急センターは〝やりがいしかなかった〟と言います。毎日毎日が怒涛の日々でした。
色々な症状の人が毎日運ばれてきて、急病の方もいれば、ケガの方も見えます。医師も看護師も、死と隣り合わせかもしれない患者さんに咄嗟の判断が必要になります。
多治見病院で配属される時に、所属の希望を出すのだが、もともと救命救急センターは第一希望ではなく第二希望だったとの事。同期はほぼ第一希望の配属となったのに、なぜ?と。
彼女と話しているうちに、一つ気づいた事がある。〝かなり打たれ強いのかも〟と。高校の時に大学の進路をバスケットボールができるところを考えたくらいの彼女だから、相当ストイックに取り組んでいたに違いない。これは憶測にすぎませんが、その精神を人事の方は見ぬいて、あえて厳しい現場、しかもとっさの判断が必要となるような部署に送り込んだのではないかと。
冒頭にのべた天使の微笑みの彼女とは裏腹に、とても芯の強さを感じました。
そんな救命救急センターで従事していた彼女ですが、「救命はあくまで急性期治療であるため、患者さんが良くなる頃、しゃべられるようになる頃には他の病棟に移ってしまうのです。私たちは命の危機だけ救って、その後の回復を味わう事ができない現場に、以前先輩看護師に対してどんなところにやりがいを感じているのかを思っていた時がありました。しかし他の病棟の看護師さんの気遣いで、回復した患者さんに会わせて頂けることがあって。元気になった姿をみると、運ばれてきた時は大変な状況だった方が、私たちの急性期治療も患者さんの回復につながっている、初期治療の大切さを知って、その中に自分が関われている事に喜びを感じるようになりました。」
医療の現場には初期治療→中間治療→リハビリ→日常生活→在宅にむけて様々にサポートしている部署があるが、それぞれの現場に従事している者にとっても、この連携は働く人の充実感をもたらす大切なチームワークだと感じました。
育児休暇を終えた彼女が復帰する部署は、救命救急センターではなく、「中央放射線部」
胃カメラや大腸検査など放射線を使った検査をする部署です。外来の希望もしていましたが、上司からステップアップしてみないかと言われ、ここに決めました。ここでの検査の経験を積んだら、救命救急での検査もできるようになるとの事。やはり彼女の心を惹くものは救命での仕事なのだ。
「私、独身の時はすごくトゲトゲしくて後輩にもずいぶん厳しい事を言ってきたし、後輩が落ち込んでいても落ち込ませっぱなしで何のフォローもしてあげられなかった。
母となり、子育てしていくうちに、いい意味で「まぁいいか」と思える余裕が出てきた。思い通りにならない子を待つ余裕、許す余裕。それがこれから復帰した仕事現場で生かされていけばと思っています。」
看護師という職業を続けていきたいですか?と言う質問には、迷わず「はい」と。
「看護師の関わる場面には、救命のように急性期と、リハビリなどの慢性期があります。そして在宅看護という仕事もある。今後はいろんな現場にも関わって自分が成長していけたらと思います。実は同期で3人、病院に入ったのですが、1年目で2人辞め残ったのは私一人になったのです。自身も夜勤がきつくて、突発性難聴になってしまいました。気を張って頑張りすぎてしまったのでしょうね。そこから自分の元気でないと人に元気を与えられないと、働き方の考えを変えてからは、ずいぶんの気が楽になりました。」
昨今になり看護師の働き方も以前と比べて変わってきたのだろう。
それでも人の命をあずかるという緊迫した中で仕事をしている事には変わりはない。
戦場の天使と言われた時代はもうずいぶん昔の話だが、彼女の愛くるしい天使のような笑顔は、たくさんの厳しい現場を乗り越え、患者さんとの触れ合いにより生まれたものだと感じた。
柄物が好きです。休日の時はショートパンツやスカートをはいてみたりしていましたが、子供ができてからは動きやすいパンツスタイルが増えました。
最近もお友達のお返しを買いに行ったのですが、誕生日のケーキは必ずグランディールさんで買います。
あとは結婚記念日なども。夫婦けんかをして仲直りしたい時もグランディールさんのケーキを買いに来るんですよ。
妊娠中に甘いものを食べたくて来たこともあります。何かの記念の時には使いたくなる場所です。
多治見の人ってすごく親切な方達が多いと思います。妊娠中はとくに席を譲られたり、お腹に触ってくれる方がいたり、子供が小さい頃は、スーパーで買い物していると荷物ここに置いておくねと手伝ってくれたりと、自分が不便を感じるようになったら、人の温かさを感じるようになりました。
コーディネート・取材・ライター |
: |
山下真美子 (POLA 紗ら) |
ヘアメイク | : | 鈴木利奈子(POLA THE BEAUTY多治見住吉店) |
動画撮影編集 |
: | 富田由芳(ロージーチークス ) |
ネイルデザイン |
: | 小林八智子(ネイルサロン トレゾール ) |
カメラマン | : | 勝股聡子 |
ウェブサイト制作 | : | 馬場研二 |